マイク英会話教室札幌の所在地
札幌中央区の中島公園そばに、マンツーマンで質の高い英会話スクールがあります。聞いて、話して、英会話を身につけよう!
札幌市中央区でアクセスしやすい英会話スクールをお探しですか?
住所 | 札幌市中央区南9条西3丁目2-1 マジソンハイツ705号室 |
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アクセス | 地下鉄 中島公園駅から徒歩3分 |
お問い合わせ | TEL:090-6443-2799 |
定休日 | 日曜日 |
マイク英会話教室札幌は地下鉄南北線中島公園駅近く、すすきのの南端に位置しています。
おしゃれな教室は、ホテルマイステイズプレミア札幌パーク(旧アートホテルズ札幌)の真向かい、札幌パークホテル、Zepp Sapporoからすぐのところです。
※すぐ横にコインパーキングがあります。中島公園のご紹介 – About Nakajima Park
札幌の中心部、大通りや狸小路、豊平川から近く、繁華街で有名な「すすきの」に隣り合わせた場所にあります。
緑が豊かで、素敵な池があり、コンサートホールや天文台、テニスコートも・・・
実は古くから中島公園は、札幌の街づくりに重要な枠割を果たした場所でもあり、外国人とのつながりも深いという歴史を持っています。過去には博覧会や花火大会が開催されたり、オリンピック候補地になったり、ラジオ局があった時代もありました。
そのため、一見の価値があるような重要文化財が多い公園でもあります。
公園のお散歩・ジョギング – Going for a Walk or a Jog in the Park
公園内は広く、ひとりでのんびりしたり、カップルで歩いたり、お子様を連れて探検したり。愛犬を連れて散歩をする人も多く、様々な人たちに親しまれています。
ジョギングをするのにも適していますし、豊平川もすぐ近くです。
北海道マラソンや札幌マラソンでは、公園の側を走ったり、ゴール地点となったりします。きっとランナーへも、ひとときの癒しやモチベーションを与えてくれていることでしょう。
菖蒲池 – Shobu Pond
中島公園の原点であり、その象徴的な存在である菖蒲池。開拓使による札幌の街づくりの際には、特に重要な役割を持っていたそうです。
池の周りをぐるっと散歩することができ、四季によって違った景色が楽しめます。春から秋のシーズンは、ご家族やカップルで、ボート遊びをすることもできます。
札幌の歴史
現在(2016年)から150年ほど前、江戸時代の頃から、札幌に街を作ろうとする人たちが増えてきました。その中でも、札幌開拓の先駆者と呼ばれる大友亀太郎は、今の創成川の元となった堀(用水路)を作りました。
人が住んで暮らすためには水が必要です。水がなくては生活ができません。その為にもこの堀を作る工事は、「百万両の大工事」と呼ばれ、札幌の街づくりの起点となりました。
明治時代になると開拓使が設置され、より本格的に街づくりが始まりました。それまで蝦夷地と呼ばれていた土地が、「北海道」と改称されました。
ちなみに現在北海道と呼ばれている島は、先住民であるアイヌの人たちは「アィヌモシㇼ(Ainu Mosir)/ 人間が住む土地」と呼んでいました。
八窓庵 – Hasso-an
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名であり、茶人、建築家、作庭家、書家でもあった小堀政一(小堀遠州)が建てたと言われる茶室です。
当初は孤篷庵に所在(現・滋賀県長浜市)したとされ、その後何度か移築を繰り返し、1971年に中島公園内に移築しました。
2005年には不意の出来事により全壊していましましたが、江差町の亀田工業株式会社の技術による工事で修復されました。
窓が8つあることからその名が付けられ、国の重要文化財にも指定されています。
札幌コンサートホール Kitara – Sapporo Concert Hall “Kitara”
1997年に開館した音楽専用のホール。演奏家からの人気も高い優良ホールです。
札幌交響楽団の演奏会やPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)、全日本吹奏楽コンクールが行われます。
「札幌」の語源は?
アイヌ語との関係
「札幌」の語源はアイヌ語が基になっており、「豊平川」のことを指していた言葉から生まれたという説が有力です。
アイヌ語には、日本語や英語のような「文字」がありません。なので、次のようにカタカナやラテン文字(いわゆるローマ字)を代わりに使って、表記がされています。
- サッ・ポロ・ペッ(sat・poro・pet)
- 「乾いた大きな川」という意味
- 「サッ(sat)/ 乾いた」sat「ポロ(poro)/ 大きな)」・「ペッ(pet)/ 川」
- サリ・ポロ・ペッ(sari・poro・pet)
- 「その葦原が大きな川」という意味
- 「サッ(sari)/ 葦原」・「ポロ(poro)/ 大きな)」・「ペッ(pet)/ 川」
アイヌの人たちの間でも、大きな川だという認識がされていたということですね。葦も生え茂っていたのでしょうか。
ただし当時は、豊平川の周りにはほとんど人は住んでいなかったようです。
札幌の街づくりは、この未開の地「豊平川」を中心に始まりました。ここへたくさんの人が住めるような街を作るためには、多くの建築資材が必要でした。
まだ道路や鉄道が整備されていなかった時代・・・。街を作る木材や物資は、川を使って運ばれました。
中島公園の歴史
そのような前提があって、いよいよここから、中島公園の歴史が始まります。治水や貯木場として、この地域が大きな拠点となったのです。水路を作ったり、木材を保管しておくための土地として。
建築資材は、豊平川から鴨々川、吉田堀・寺尾堀・大友堀(現・創成川)を経由して、運ばれました。ただし川もまだまだきちんとは整備がされていなく、橋や水門を作っても、壊れてしまったり洪水が起こったりという状態でした。札幌は大雪が降る上に、春になると大量の雪解け水が川に流れてもきますので、きっといろいろと大変だったと思われます。
開拓使の人たちは、このままじゃいけないと考えたでしょう。そこで彼らは、豊平川の水防計画を立てました。そして鴨々川に水門を設置しました。豊平川と鴨々川。二つの流れに挟まれた土地なので、この場所を「中島」や「鴨々中島」、「水門中島」と呼んでいたようです。
建築資材の行き先は、大友堀(現・創成川)の東側でした。この地区には、資材を加工する工作所や木挽所があったのです。現在の大通り東1〜2丁目、テレビ塔の東側、サッポロファクトリーの南西付近です。近くには大友亀太郎の像が建てられています。
当時はそこへ送る途中の貯木場として、豊平川と鴨々川の付近に「池」が必要となりました。工事は鈴木元右衛門という人が請け負い、そのためその池は「元右衛門堀」とも呼ばれたそうです。
ここから送られていった資材によって、札幌という土地に、人々が暮らすことができる街が作られていったということになります。この貯木場・水門としての堀、池が、現在では菖蒲池と呼ばれるようになりました。
池は、時代に合わせて名前、そして姿を変えていきました。スケートリンクだったこともありました。戦争がなければ、1940年の札幌冬季オリンピックの会場になる予定でした。氷上カーニバルやウォーターシュートが行われていたこともありました。
現在は、ボートに乗れる池、景観が楽しめる散歩道がある池として親しまれています。
豊平館 – Hoheikan
豊平館の歴史
明治時代に作られた、開拓使が来賓を迎えるための西洋館です。明治政府が建てた唯一のホテルであり、現在は国指定重要文化財となっています。特徴的な青い色(ウルトラマリンブルー)が目を惹きます。
開拓使の役人である、安達喜幸が中心となった工業局営繕課が設計しました。安達喜幸はその以前に、マサチューセッツ農科大学のウィリアム・ホイーラーの構想の元、札幌農学校演武場(現・札幌市時計台)の設計も行っています。(ホイーラーは札幌農学校(現・北海道大学)の二代目教頭でした。初代教頭がマサチューセッツ農科大学学長だったクラークです。)
建設工事は、大工の棟梁である大岡助右衛門へ依頼されました。庭園の設計はアメリカ人園芸技師の、ルイス・ベーマーへ依頼されました。
黒田清隆とホーレス・ケプロン
開拓使の次官・長官(開拓使のトップ)は、薩摩藩士だった黒田清隆(後の第2代総理大臣)でした。彼は時代背景的にも、欧米の先進技術や知識を求めたようです。御雇外国人として、アメリカ農務省長官(農務局長)のホーレス・ケプロンを招いており、ケプロンは開拓使顧問でした。そのケプロンの指示で、ベーマーが札幌に赴任していたそうです。
現在の大通り公園には、黒田清隆とホーレス・ケプロンの二人の大きな銅像が建っています。ルイス・ベーマーは園芸だけでなく、果樹栽培や植物生育の技術も持ち合わせていたので、リンゴやビール用のホップの栽培でも功績を残しています。
その様な経緯の中で、当時の日本にはほとんど無かった、アメリカ風様式を基調とした本格的な木造建築物として、豊平館が出来上がりました。基調はアメリカ様式ですが、ヨーロッパ様式や、和風のモチーフも取り入れられています。1879年に起工、翌1880年に完成しました。
開拓使(Hokkaido Development Commissioner)とは?
「開拓使」と聞くと、なんとなく「北海道を開拓した人たち」と、ざっくりとしたイメージが定着している感じがあります。実際は、「省」と同格の「中央官庁」であり、「行政機関」です。
ロシアの南下政策に対する危機感で設置されたという意味合いもありました。150年ほどたった今(2016年)では、ロシアのシベリア鉄道を北海道まで延伸しようという話が出ています。もしそうなれば、札幌はより国際的かつ重要な都市になっていくでしょう。
御雇外国人(employed foreigners, foreign residents in Japan employed to teach new techniques)とは?
幕末から明治にかけての時代、海外の技術や知識を学ぶために、幕府や政府などが雇用した外国人です。主に欧米から、中でもアメリカ人が多く来てくれました。いわゆる脱亜入欧の政策のひとつです。
札幌の街づくりにも彼らの力が欠かせませんでした。中でもケプロンの仕事は多くの分野に影響を与えています。言い伝えられている主な功績として、
- 札幌農学校(現・北海道大学)の開校に力を尽くし、初代教頭にクラークが赴任。
- 麦の栽培を奨励。(その後サッポロビールは有名になりました。)
- 魚の缶詰生産を進言。(その後サケ缶も有名になりました。)
- 札幌と室蘭の間、森町と函館の間に道路や鉄道を作ることを提案。(その後国道36号線や5号線が通り、国鉄・JRが走りました。)
などがあります。
開拓使が招いた中では、ケプロン、クラーク、ホイーラー、ベーマー、ダンなどが有名ですが、日本全国総勢では数千人いたようです。その頃の日本でも、英会話ができる人や翻訳ができる人は重宝されたのではないでしょうか?
黒田清隆がケプロンを説得・招聘したときは、森有礼が通訳をしたそうです。また当時の東京英語学校では札幌農学校の生徒募集が行われ、そこから若き日の新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾たちが札幌へやってきています。新渡戸稲造は英語がとても堪能だったことでも有名です。
そうして建てられた豊平館も、時代が変わるにつれアメリカ人が利用したり、札幌公民館となったり、札幌市民会館と改称されたりしました。当初は大通り(今のテレビ塔と時計台の間、市役所付近)にありましたが、その後、1957年に中島公園に移築されました。
中島公園移築後には、結婚式場としても人気があったようです。いまでは国の重要文化財に指定されています。
2016年に、交流施設(観覧・貸し室)としてリニューアルオープン。今でも結婚式を挙げることができます。
Park Map
このページについて – About This Page
※このページは市民や観光客向けの公園紹介を趣旨とした内容であり、公園を管轄する札幌市公園緑化協会等とも相談の上、掲載させていただいております。